写楽改北斎──名を隠した絵師と、父としての北斎

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写楽の正体とは?北斎との関係

浮世絵史上、もっとも謎に包まれた絵師──それが東洲斎写楽です。

その活動期間はわずか十か月。にもかかわらず百四十点以上の役者絵を残し、あまりに強烈な表現ゆえに時の役者たちに忌避されたとされるこの人物の正体については、いまなお明確な結論が出ていません。

本記事では、長年浮世絵を蒐集・研究してきた中村公隆による一冊『写楽改北斎』をもとに、写楽と北斎をめぐるある仮説を紹介いたします。そして近年の視点もふまえながら、「写楽=北斎説」の可能性について、あらためて検討していきます。

読み解く鍵は、名前、家族、そして記憶──
名を変えながら生きたひとりの絵師と、その名を封印した絵師とのあいだに、どのような交差があったのか。写楽の正体をめぐる旅のはじまりです。

1. 写楽とは何者だったのか

東洲斎写楽 「市川蝦蔵」(部分)写真:銀座東京羊羹アーカイブ

東洲斎写楽――その名を知らない日本美術ファンは少ないでしょう。1794年、彗星のごとく登場し、わずか10か月のあいだに140点以上もの役者絵を残して忽然と姿を消した謎の絵師。その正体は、200年以上にわたり美術史上最大のミステリーとされてきました。

写楽の正体をめぐっては、北斎、歌麿、豊国、司馬江漢など30人以上の名が挙げられてきました。本稿では、その中でも特異な存在として注目される仮説「写楽=北斎説」に焦点をあててご紹介いたします。

2. 寛政期の出版文化と蔦屋重三郎の決断

蔦屋重三郎(蔦唐丸)の自画像
蔦屋重三郎(蔦唐丸)の自画像。左の人物の服に蔦重の紋が描かれている。写真:銀座東京羊羹アーカイブ

寛政6年(1794年)、江戸の出版界では版元蔦屋重三郎が中心的存在として君臨していました。喜多川歌麿の白雲母摺による傑作《難波屋おきた》など、浮世絵の芸術性は頂点に達していたともいえるでしょう。

一方、葛飾北斎もまた、当時蔦屋から作品を発表しており、画業において充実していたはずでした。しかし、ちょうどこの寛政6年から7年にかけて、北斎は突如として絵筆を止め、活動の記録が空白になります。その間に、まるで入れ替わるかのように登場したのが、写楽だったのです。

写楽は、当時最も贅を尽くした黒雲母摺の役者絵で華々しくデビューし、わずか10か月で140点以上もの作品を発表しました。しかもそれは、他のジャンルや版元には広がらず、寛政7年1月を最後に忽然と姿を消しました。なぜ無名の絵師にこれほどの大プロジェクトが託されたのか。それを主導した蔦屋重三郎の判断は、いまも大きな謎です。

蔦屋は、寛政の改革により見上半減を命じられるなど苦境に立たされており、社運をかけて浮世絵出版に挑んでいたと考えられます。そのような状況下で、無名の写楽をなぜ起用したのか――それが、実は実績ある絵師・北斎であったなら、全体の構図は一気に整合するのです。

3. 写楽=北斎説の根拠

「春朗 改 群馬亭」落款(北斎)の浮世絵
「春朗 改 群馬亭」落款(北斎)の浮世絵

この仮説の最大の根拠は、北斎の“改名歴”にあります。寛政6年(1794年)は、北斎の確実な作品がなく、「春朗」から「宗理」へと名を改める空白期にあたります。そしてこの年、写楽は突如現れ、そして姿を消したのです。つまり、この年に写楽として活動していたのではないかという見方が成り立つのです。

画風の共通点も注目されています。構図の緻密さ、陰影の扱い、舞台照明のような黒雲母摺の使用、そして人物表現の造形力など、いずれも当時の新人には異例の完成度を誇っています。さらに、蔦屋重三郎と北斎の接点、北斎の改名の習性、勝川派時代の役者絵経験などを総合すれば、写楽=北斎説は説得力を増します。

写楽と北斎が描いた歌舞伎役者「三世市川高麗蔵」の浮世絵比較
写楽と北斎が「三世市川高麗蔵」を描いた役者絵、驚くほどの共通点がみえる。写真:銀座東京羊羹アーカイブ

4. “写すを楽しむ者”という名の意味

さらに注目したいのが、「写楽」という画号に込められた意味です。「写すを楽しむ者」、あるいは「写ることを楽しむ者」。この言葉に、北斎の美学と、もう一つの深い物語が重なります。

北斎には、早世した長男・富がいました。北斎が描いた若者像のなかには、どこか舞台上の人物を思わせる姿もあり、見る者の想像を誘います。写楽の作品に登場する役者たちは、鏡に映るかのように舞台を正面から捉えられ、光を受けて浮かび上がります。

これらの要素は、ただ技巧としての選択ではなく、「誰かの姿を刻みつけたい」という切なる思いの現れかもしれません。写楽という仮名は、父・北斎が息子に贈った最後の舞台であり、その名こそがレクイエムだったのではないか――そう感じさせるのです。

5. 匿名の職人文化と江戸の出版事情

忘れてはならないのは、浮世絵が“アート”というより“職人の仕事”であった点です。絵師は職人の一部として、彫師・摺師・版元と共に制作工程を担いました。そのため版元の蔦屋重三郎は写楽の正体を知っていたはずです。“なぜ名乗らず、忽然と消えたのか”、写楽が最後まで正体を明かさなかったのは、江戸という社会で無名の職人として、役目を全うしたからかもしれません。あるいは、名前を伏せることが最も効果的な表現戦略だったと蔦屋が考えた可能性もあります。

北斎が、名を変えながらも「浮世絵」を描き続けたように、写楽という仮名もまた、役者を演じた名前だったのではないでしょうか。

6. 仮説は通説を打ち破るためにあるのではない

この仮説は、必ずしも「写楽=北斎」であると断定するものではありません。ただ、江戸という時代の文化や出版事情、蔦屋重三郎の戦略、そして北斎の空白期を照らし合わせてみると、この視点が極めて自然に浮かび上がってくるのです。

“写す”とはなにか。“名をのこす”とはなにか。
それを問い直すことが、現代において写楽という存在を再び生きたものとする手段なのかもしれません。

7.補章:“決まりすぎた正体”──写楽=能役者説へのひとつの視点

現在、写楽の正体として「能役者・斎藤十郎兵衛」説が有力視されることがあります。この説は、斎藤月岑による『増補浮世絵類考』(1844年)の記述を根拠に、阿波徳島藩お抱えの能役者であった斎藤十郎兵衛が写楽だったとするものです。しかし、この説にもいくつかの論理的な課題があると考えています。

まず、この仮説はおおよそ以下の三段階の構成に基づいています。

1斎藤月岑の『増補浮世絵類考』に「写楽は斎藤十郎兵衛」とあること

2月岑の証言が江戸時代の同時代資料として価値があるとされていること

3その斎藤十郎兵衛が、史料上実在することが確認されたこと

一見すると整った推論のように見えますが、第一の根拠となる『増補浮世絵類考』の信憑性には、慎重な検証が必要です。というのも、月岑は写楽の活動時期(寛政6〜7年)を「天明寛政」と誤記しており、約50年後に書かれたこの文献が、どこまで実際の人物と作品を正確に反映しているのかには疑問が残るからです。

さらに問題となるのは、この資料が印刷物ではないということです。しかも「写楽=斎藤十郎兵衛」という記述を含む写本は非常に限られており、現時点でその写本通称ケンブリッジ本しか確認されていません。とりわけ、明治時代に来日した外交官アーネスト・サトウが購入した写本がヨーロッパに渡り、それをもとにユリウス・クルトが1910年に著した著作『Sharaku』が写楽論の礎となったという流れには、偶然にしては出来すぎている印象すらあります。

このクルトの著作とほぼ同時期に、ヨーロッパで初の写楽展が開催されました。つまり、「写楽=斎藤十郎兵衛」という説は、事実の積み重ねというよりも、明治以降の資料流通と近代的な解釈によって形作られた“完成された物語”だった可能性も否定できないのです。

写楽は19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパにおいても、極めて高い知的関心の対象となっていました。
しかし、もし写楽=斎藤十郎兵衛説が日本ですでに確立された通説であったとするならば、ジャポニスムの紹介者として中心的役割を果たした林忠正が、それにまったく言及していないのはなぜだったのでしょうか。

そこに、1910年ヨーロッパで初めて本格的な写楽展が開かれる直前に、都合よく「写楽の正体」が記された唯一の史料が登場し、その内容をもとにクルトが研究書を刊行する──この展開はあまりにも整いすぎてはいないでしょうか。

もちろん近年では、能役者の公式記録である『猿楽分限帖』や、阿波藩の古文書『蜂須賀家無足以下分限帳』、埼玉県越谷市の法光寺の過去帳などにより、斎藤十郎兵衛という人物が八丁堀に住み、阿波藩に仕えていたことは高い確度で確認されています。

しかしながら、それが直ちに“東洲斎写楽”その人であったと断定できるわけではありません。むしろ、写楽が突如として現れ、贅を極めた黒雲母摺の役者絵を約10ヵ月で140点以上も発表し、他ジャンルを描くことなく忽然と消えたという異常な画歴を考えれば、能役者が余技で成し得るような仕事ではなかったと見る方が自然ではないでしょうか。

「写楽=能役者説」は、江戸時代の文献に記されたひとつの見解にすぎません。もしこの前提に揺らぎがあるとすれば、私たちは写楽という人物について、もう一度先入観のない目で見つめ直してみる必要があるのかもしれません。

よく知られた説や通説であっても、それがどのような背景や経緯で広まったのか、あらためて振り返ってみることには大きな意味があるはずです。ときには、「事実」とされてきたことの奥に、時代や文化が編み出した物語が潜んでいることもあるからです。

文化を大切にするということは、記録をそのまま受け入れることではなく、多様な可能性に耳を傾け、未解決の問いを忘れずにいる姿勢ではないでしょうか。写楽の正体をめぐる謎は、まさにそうした新たな視点に立った探求を、私たちにそっと促しているようにも思われます。

※本記事は、父・中村公隆による研究書『写楽改北斎』の内容をもとに、構成および一部加筆のうえ中村大地が執筆しました。世代を越えて受け継がれる視点から、写楽という謎の絵師にもう一度光をあてたいと考えています。

8. 所蔵品と関連リンク

本ページでご紹介した内容は、リボリアンティークスが所蔵するジャポニスム・コレクションの文脈とも深くつながっています。

▶ 『写楽改北斎』中村公隆著 研究小冊子[商品ページへ]
▶関連読み物ページ一覧 浮世絵と西洋版画―ジャポニスム
▶ 文化協力と所蔵資料アーカイブ

── 名を捨てた絵師と、父としての北斎。その静かな物語を、ぜひご自身の中で繋げてみてください。

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