写楽の謎・12のトリビア ── 浮世絵師・東洲斎写楽とは何者か?

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江戸時代後期、突如として現れ、わずか10か月で姿を消した謎の浮世絵師・東洲斎写楽。その正体をめぐっては多くの説が唱えられ、今なお論争が続いています。ここでは、写楽をめぐる12の興味深いトリビアを紹介します。

東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)とは?

江戸時代後期、わずか10か月の活動で145点以上の浮世絵を残し、突如として姿を消した謎の絵師。主に歌舞伎役者の似顔絵(大首絵)を描き、その表現の強烈さと短命さゆえに「謎の浮世絵師」として世界中の注目を集め続けている。

東洲斎写楽「市川蝦蔵の竹村定之進」
東洲斎写楽「市川蝦蔵の竹村定之進」(部分)写真:銀座東京羊羹アーカイブ

写楽の謎・12のトリビア

正体も生没年も不明。しかも活動はわずか10か月──。
写楽はなぜ現れ、なぜ消えたのか?
名も落款も異なる痕跡を残し、今も人々を惹きつけるその存在を、12のトリビアから紐解きます。


1. わずか10か月、145点の作品を残して姿を消す

写楽は寛政6年(1794年)5月にデビューし、翌年2月までのわずか10か月間に、145点以上の作品を刊行しました。これほどの短期間で集中して作品を残した浮世絵師は他に例がありません。

2. 出版元は蔦屋重三郎ただ一人

写楽の作品を出版したのは、当時の文化人たちを支援していた版元・蔦屋重三郎のみ。ほかの版元からの出版がないのは異例で、写楽が何者か特定の人物だった可能性を示唆します。

蔦屋重三郎(蔦唐丸)の自画像。左の人物の服に蔦重の紋が描かれている。
蔦屋重三郎(蔦唐丸)の自画像。左の人物の服に蔦重の紋が描かれている。写真:銀座東京羊羹アーカイブ

3. デビュー作は黒雲母摺の超豪華仕様

第1期28点の作品は、背景に黒雲母(くろきら)を使った豪華な大首絵。異例の高級仕様で、蔦屋の写楽への期待が窺えます。

4. 第3期の5点に屋号や俳名の誤記がある

寛政6年11月に刊行された「写楽落款」の11点の間版(あいばん)シリーズでは、5点に屋号や俳名の誤記が発見されています。精緻な出版管理で知られる蔦屋にしては不可解なミスです。

5. 写楽は春画を描いていない?

多くの浮世絵師が春画も手がけた中で、写楽にはそのような作品が確認されていません。これは、写楽の身元に何らかの制約があった可能性を示しています。

6. 文献に名前が出てくるのは活動終了後

写楽の名が初めて文献に登場するのは、活動が終わった寛政7年以降。太田南畝『浮世絵類考』に「似すぎて嫌われ、長続きしなかった」と記されています。

7. 草双紙に登場した写楽の凧絵

1796年、十返舎一九の草双紙『初登山手習方帖』に、東洲斎写楽落款の凧絵が描かれています。他のページには耳鳥斎の落款もあり、写楽と耳鳥斎の関係を示唆する重要な資料です。

十返舎一九の草双紙『初登山手習方帖』に描かれた東洲斎写楽落款の「暫」
十返舎一九の草双紙『初登山手習方帖』に描かれた東洲斎写楽落款の「暫」写真:銀座東京羊羹アーカイブ

8. 団扇にも描かれた写楽の絵

浮世絵師・長喜が「高島屋おひさ」を描いた作品には、団扇の中に写楽の大首絵《肴屋五郎兵衛》が描き込まれています。写楽の人気が一過性ではなかったことを物語ります。

9. 「浮世絵界の孤島」だった写楽

1802年、式亭三馬の戯作『倭画巧名尽』では、浮世絵師たちが島として描かれた地図に「写楽」が孤立した島として登場します。異端の絵師として認識されていたことがわかります。

10. 「写楽斎」は写楽本人か? 地蔵橋の記録

1818年頃、瀬川冨三郎の著作に「写楽斎」が八丁堀地蔵橋に住んでいたと記されています。写楽と同一人物か、別人かは現在も議論が続いています。なぜなら、「写楽斎」の名で描かれた作品には、写楽の活動時期とは異なる年代のものも確認されています。たとえば、1789〜1790年(寛政1〜2年)には「写楽斎」の絵暦が存在し、さらに1808年(文化5年)には「写楽斎唐画」の落款のある作品も見つかっています。これらは写楽とは別人の「写楽斎」が存在したことを示唆しており、混同を避ける必要があります。

11. 「写楽」と「東洲斎写楽」、2つの落款

写楽の作品には、「東洲斎写楽」と「写楽」の2種類の落款が存在します。前者は初期の大首絵に多く第3期まで、後者は第3期以降の作品で見られます。この署名の変化は、写楽の制作態度や公開戦略に関わっている可能性があります。

「東洲斎写楽」と「写楽」落款
「東洲斎写楽」と「写楽」落款 写真:銀座東京羊羹アーカイブ

12. ジャポニスム初期には無視されていた写楽

19世紀後半、浮世絵が西洋で評価される「ジャポニスム」ブームの中で、北斎や広重は早くから紹介されていた一方で、写楽は長らく注目されませんでした。ビング編『芸術の日本』にも写楽は登場しておらず、その名がヨーロッパに広まるのは1910年、ドイツ人ユリウス・クルトの著書『Sharaku』を待たねばなりませんでした。


おわりに

写楽とは何者だったのか。

浮世絵史上でも異例づくしの画業、活動時期の短さ、出版経路の限られ方、そして写楽自身を知る同時代人たちの沈黙──。12のトリビアを通して見えてくるのは、写楽という存在の輪郭ではなく、むしろその”不在”がもたらす異様な存在感です。

しかし、それこそが写楽の魅力なのかもしれません。 その筆跡、名乗り、記録の断片を手がかりに、私たちはいまもなお写楽という謎の前に立ち尽くしているのです。

今一度、その正体をみなで探してみませんか? 江戸の絵師が遺した不思議な足跡は、今も私たちに語りかけています。

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