ベル・エポックのパリ。その街角を歩くと、色とりどりのポスターが人々を迎えていました。大胆な構図と明るい色彩、そして魅惑的な女性たち。その“街角の芸術”の中心にいたのが、ポスター芸術の開拓者、ジュール・シェレ(Jules Chéret)です。
19世紀末のパリを華やかに飾ったシェレの作品は、広告でありながらも芸術として愛されました。本ギャラリーページでは、シェレの代表作を中心に、彼が切り拓いたポスター芸術の世界をご紹介します。
19世紀末パリの夜を彩ったキャバレー《ムーラン・ルージュ》の開業を告げるために制作された記念碑的ポスター。1889年、すなわちエッフェル塔が建てられた万博の年に誕生したこの遊興地は、まさにベル・エポック文化の象徴でもありました。
シェレの筆によるこのポスターには、自由で軽快な祝祭の空気があふれています。画面中央で跳ねるように踊る女性は、カンカン踊りを彷彿とさせる大胆なポーズで観客の目を引きつけ、その背後には赤く印象的な風車(ムーラン)と、輪舞のように回る踊り子たちが描かれています。
淡いブルー、明るい黄、アクセントの赤――三色の色彩が巧みに使われ、夜の空気を透かすように人物たちは軽やかに浮かび上がります。なかでも金髪の踊り子の軽やかな身体表現や、ロバにまたがるというユーモラスな構図は、シェレならではの生き生きとした舞台感覚を伝えます。
シェレは「ポスター芸術の父」とも称され、芸術と広告を結びつける新しいジャンルを切り開いていました。この作品はまさにその代表格として、パリの街に“踊るポスター”を出現させた記念碑といえるでしょう。
軽やかに舞い踊る女性≪シェレット≫が、観る者を音楽の祝祭へと誘う――この《エルドラド》のポスターは、まさにシェレ芸術のエッセンスを凝縮した一枚です。
パリ10区に存在した音楽ホール《エルドラド》は、19世紀末におけるミュージック・ホール文化の中心地のひとつ。本作はその興行を告知するためのもので、夜毎に繰り広げられるショーの賑やかさが画面全体から溢れ出しています。
中央には、タンバリンを手に、髪を風にたなびかせながら空中を舞うような女性像。その背後には、赤い円が大きく描かれていますが、これは舞台照明の光のようにも、あるいは日本の国旗「日の丸」を思わせるようなモチーフにも見えます。当時のヨーロッパではジャポニスムが広く浸透しており、そうした異国趣味がポスターにも影響を与えていたことは想像に難くありません。
舞台下では、楽器を奏でる道化師たちが観客の熱気を代弁するかのように描かれ、画面全体にリズムと躍動感を与えています。女性の衣装の揺れや、髪の毛の流れにまで躍動感が宿っており、シェレの筆致が持つ”動きの魔法”が存分に発揮された一作です。
3色を中心に構成された明快な配色、透明感を残した色の重なり、そして優雅でありながら力強い女性像――これこそが、ベル・エポックのパリをポスターという形で象徴した、ジュール・シェレの真骨頂と言えるでしょう。
闇を裂くように舞い上がる色彩の渦。
このポスターは、19世紀末パリの夜を魅了したアメリカ人舞踊家、ロイ・フラーの舞台を告知するために制作されました。
彼女が出演したのは、パリの名高い劇場フォリ・ベルジェール。ロイ・フラーは、長いシルクの衣装を揺らしながら舞い、照明と布の陰影を駆使して幻想的な光の演出を生み出す“セラピック・ダンス”で一世を風靡しました。彼女のダンスはダンサーでありながら、舞台演出家であり、まさに総合芸術としての美を体現していたのです。
シェレが本作で描いたのは、その一瞬のきらめきを視覚化したかのような幻想の姿。黒の背景から浮かび上がるように、フラーの身体と衣装が、炎や花弁を思わせる動きで流動します。赤、橙、緑の色調が大胆に配置され、まるで舞台の照明が紙面上に再現されたかのようです。
表情はあえて曖昧に描かれ、代わりに色と形が彼女の存在感を語ります。観客の視線を奪い、動きのなかで変容する姿。それはまさに、ポスターの枠を超えて舞台の空気を伝える、シェレならではの“動く絵”です。
本作は、ポスターが芸術として成立した時代の証言であり、同時に、女性表現者が舞台において文化的アイコンへと昇華された瞬間をも記録しています。
舞台の裏側には、もうひとつの物語がある。
このポスターは、蝋人形館として知られるパリのミュゼ・グレヴァンで開催された特別展「オペラの舞台裏」を告知するために制作されたものです。
鮮やかな黄色のドレスを纏った踊り子が前景に立ち、背後には動きの軌跡のように重なり合う踊り子たちの姿。シェレの特徴である三原色に近い配色がここでも巧みに用いられ、軽やかな黄色、情熱的な赤、そしてクールな青の重なりが、視覚的なリズムを生み出しています。
このポスターの魅力は、舞台の“表”ではなく、“裏”を主題としながらも、その裏側が華やぎと幻想に満ちていることを伝えている点にあります。ダンサーたちは単なる演者ではなく、シェレの手にかかると、光と色が織りなす夢の住人として現れます。
紙の上に踊りの息吹を宿すこの作品は、ポスターが単なる案内ではなく、観る者の想像を喚起する芸術であることを証明しています。そしてそれは、ミュゼ・グレヴァンという当時最先端のエンターテインメント施設の先見性とも響き合うのです。
▶《ミュゼ・グレヴァン:オペラの舞台裏》をオンラインショップでみる
1889年、パリで行われた万国博覧会でグランプリを受賞した巻きたばこ用紙ブランド《ジョブ》の広告です。
当時の広告ポスターにおいて「煙草」と「女性」の組み合わせは、しばしば挑発的かつ象徴的に描かれました。シェレはこの作品で、その先駆けとも言える洗練された手法を見せています。
大胆なイエロー×ホワイトのストライプ・ドレスに身を包み、煙を纏うように後ろを振り返る女性。彼女の視線と仕草には、当時の新しい女性像──自立と快楽を肯定するパリのモダンな女性の姿が投影されています。
背景はシンプルな濃紺に抑えられ、浮かび上がる「J.O.B.」の文字とモデルの姿が、まるでスポットライトを浴びているかのような印象を与えます。
特筆すべきは、リトグラフらしいざらりとした筆触と軽やかなグラデーション。あえて余白を残す構図も、モダンな印象を強めています。
「広告は街の中の芸術である」──その理念を体現したシェレの傑作のひとつとして、現在も高い人気を誇る作品です。
両手にグラスとボトルを掲げて陽気に笑う女性、その膝には白い猫──このシェレのベル・エポック全盛期の傑作は、食前酒《カンキナ・デュボネ》の広告として制作されました。
緑と白の大胆なストライプドレスは、≪ジョブ≫のポスターにも通じる1890年代らしい流行のスタイル。背景に大きく配された赤円は、商品の赤ワイン系の色味と呼応しながら、舞台照明のように人物を際立たせています。シェレらしい「三色構成」──赤・緑・白の明快な色使いが、作品に軽やかな躍動感をもたらしています。
モデルの女性は、単なる商品イメージを超えて、カフェ文化と共に花開いたパリの“食前酒の時間”を象徴する存在。その笑顔と身ぶりからは、広告という枠を超えて、人々の生活を彩る喜びがあふれ出すようです。
そして忘れてはならないのが、彼女の隣に寄り添う真っ白な猫。リボンを結ばれ、彼女とともに観客へと視線を向けるこの猫は、当時のポスターにたびたび登場する、親しみと遊び心の象徴です。
街角に貼られたこの一枚が、誰かの一日を少しだけ明るく照らした──そんな「街の芸術家」シェレの真骨頂がここにあります。
▶《カンキナ・デュボネ:食前酒のポスター》をオンラインショップでみる
ジュール・シェレのポスターには当時の都市文化や新興中産階級のライフスタイルが色濃く映し出されています。単なる広告ではなく、生活を彩る広告としてポスターを位置づけた彼の姿勢は、その後のロートレックやミュシャの受け継がれていきました。
本ページで紹介している作品は、19世紀末に制作された正規の縮小版リトグラフ≪Les Maîtres de l’Affiche(ポスターの巨匠たち)≫及び≪Les affiches illustrées ≫より引用しています。オリジナルの迫力と洗練をそのままに、小型で愛蔵に適した美術印刷作品です。
本作品は、当時に制作されたオリジナルのアンティーク版画です。リボリアンティークスで取り扱うすべての作品は、後世の複製やコピーではなく、美術的価値のある本物の作品となります。
経年によるごく自然なヤケや微細なシミなどが見られる場合がございますが、それらは19世紀末における紙の風合いや印刷技法を今に伝える痕跡であり、作品の時間性を感じさせる要素でもあります。
状態についてご不明な点がございましたら、お気軽にお問い合わせください。
リボリアンティークスは、美術的・歴史的価値のある作品にこだわり、コレクション形成に努めてきました。その取り組みは、美術館への協力実績や、専門的な出版活動にも結実しています。
三代目であるオーナーの中村大地は、ベル・エポック、アール・ヌーヴォー、ジャポニスムを専門とし、2024年には著書『黒猫の漫画家スタンラン』を刊行。今日も版画芸術の魅力を広める活動を続けています。