アール・ヌーヴォーの第一人者
躍動感に溢れる女性の髪、その背景を彩る花々、しかし描かれている髪の毛や花々などの植物は、現実にはあり得ない動きや形をとり、平面でありながら見るものに奥行きと動きを与えています。このアール・ヌーヴォー最大の特徴ともいえる、「動きのある曲線を使用し、人物や動植物など実際に存在するものをモチーフとして象徴的に描く」という原理を全て兼ね備えていたのが、アルフォンス・ミュシャでした。
1860年、モラヴィア(現チェコ)のイヴァンチッツェに生まれたミュシャは、ウィーンやミュンヘンなどを経て、1887年にパリにやってきます。パリに来た当初は、フランス語もしゃべれず、小説や雑誌の挿絵などで生計を立てていましたが、パリにきて7年後の1894年のある日を境にミュシャは一躍人気ポスター作家となりました。
1894年のクリスマス、他の画家たちはクリスマス休暇を取っていましたが、ミュシャはパリに残って仕事をしていました。するとクリスマス当日、ミュシャが働いていたルメルシィエ印刷所に、新年に上演されるサラ・ベルナールの舞台「ジスモンダ」のポスターの依頼が舞い込んできます。それまで、ミュシャはポスターの製作を手掛けたことがありませんでしたが、その日の内にルネッサンス劇場に行き、ポスターの原案であるビザンティン風なサラのスケッチを描いたところ、サラがこのスケッチをとても気に入り、製作されることとなりました。このポスターが1895年の元旦に貼り出されるやいなや、ミュシャの名声は日に日にパリ中に広まっていきます。この後1901年にサラがアメリカに行くまでの6年間、ミュシャはサラのポスターや舞台装置や衣装などのデザインを行うこととなりました。
ミュシャの第一の転機が1894年の「ジスモンダ」のポスターだとしたら、第二の転機は1896年の「黄道十二宮」とも言えます。ジスモンダの成功から間もなくしてミュシャはシャンプノワ社から、新年のカレンダーを制作する依頼を受けます。女性の背後の光輪に黄道十二宮(十二星座)を配し、下段に365日の日付が描かれたこのシャンプノワのカレンダーは、雑誌「ラ・プリュム」のレオン・デシャンがとても気に入り「ラ・プリュム」のカレンダーとしても使用しました。このため「黄道十二宮」は長らく「ラ・プリュムのカレンダー」と呼ばれていました。この作品の成功をうけミュシャはシャンプノワ社と独占契約を結び、以後さまざまな作品を発表していきます。シャンプノワ社の作品は装飾パネル(広告物でない観賞用のポスター)やポストカードなど、今までの限られたサロンや裕福な人たち向けではなく、一般の人々へ向けられた芸術でした。また同じ年の1896年にミュシャは「サロン・デ・サン」の入会が許可され、1896年のサロン・デ・サン第20回展のポスターや、1897年にはこのサロン・デ・サンにてミュシャ自身の個展を開催し、そのポスターも手掛けてます。
特に1896年から97年の2年間はミュシャの黄金期ともいえる時期で、ミュシャの代表作が集中しています。1896年にはサラ・ベルナールの舞台「椿姫」や「サラ・ベルナールを讃えるポスター」、初の装飾パネル「四季」、ビスケットの広告ポスターである「ルフェーブル・ユティル」、そして前述の「黄道十二宮」に「サロン・デ・サン第20回展のポスター」が、1897年にはミュシャの最高傑作の一つである「ジョブ」、鉄道の広告ポスター「モナコ・モンテカルロ」、日本でも人気の高い「夢想」や「ビザンティン風な頭部」などミュシャ・スタイルと呼ばれるミュシャ独特のスタイルを決定づける傑作が数多く描かれました。
1900年にパリで開催された万国博覧会は、アール・ヌーヴォーという言葉の生みの親ともいえる、ビングのパビリオン「ラール・ヌーヴォー・ビング」(L’Art Nouveau Bing)の大成功などによってアール・ヌーヴォーを象徴する博覧会となりました。当時大人気であったミュシャはこの万国博覧会でも数々の作品を手掛けます。パリ万国博覧会の公式カタログの表紙に始まり、オーストリア館のポスターやボスニア館のレストランのメニューなど、さらにはオーストリア館にはミュシャの製作したブロンズ胸像「ラ・ナチュール」が展示され、中でもミュシャ最大の展示と言えばボスニア=ヘルツェゴビナ館の内装でした。
内装と言えば、1901年には宝石店フーケの内装を手掛けます。1923年にフーケの店は閉店し取り壊されてしまいますが、孔雀の装飾などミュシャの素晴らしい内装の一部は、パリのカルナヴァレ美術館に保存されていますので現在も見ることが出来きます。また上記の写真はミュシャの装飾パネル「羽根」と「桜草」が飾られた内装で、装飾パネルはこのように用いられました。
1904年よりミュシャはしばしばアメリカに渡り、雑誌の表紙や挿絵などを手掛け、パリでの作品はほとんど見られなくなります。そして1910年、ミュシャはパリを離れ、祖国チェコに活動拠点を移し、市民会館やスラブ叙事詩の製作にかかるようになります。チェコに戻ってからは、スラブ叙事詩に代表される絵画作品が中心になりましたが、ポスターも何点か製作しています。しかしチェコに戻ってからのミュシャのポスターは1911年の「ヒヤシンス姫」や「モラヴィア教師合唱団」のポスターにも見受けられるように、女性の背後に円を描くミュシャらしい構図ではありますが、パリ時代の華やかな色使いや優雅な装飾は無くなっています。これ以降のポスターは数少なく、1916年から1926年にかけて「スラブ叙事詩」を描き、1939年にプラハにて没しました。
ミュシャ・スタイル
ミュシャ・スタイルとは、ミュシャの描く独特の作風を指す言葉で、しばしアール・ヌーヴォー・スタイルと同意義で使われることがあります。それほど、当時のパリやヨーロッパで、ミュシャの描いた女性像は衝撃的でありました。ミュシャが登場する以前のポスター作家と言えば、ジュール・シェレやウジェーヌ・グラッセがあげられます。軽やかでまるで宙に浮かんでいるようなシェレット(シェレの描く女性)と、いち早く曲線や植物をモチーフとしながらも、しっかりとした強い女性を描いたグラッセという対照的な先駆者の影響を受けたミュシャは独自のスタイルを作り出しました。シェレが軽やかさ、グラッセが力強さとするならば、ミュシャは神々しさや神秘さを表現しました。そのため、女性の背後に聖人の証である光輪を模した円を描き、ビザンティン美術に代表されるモザイクをポスターに取り入れます。とくに女性の背後に描かれている円はミュシャの作品の大多数に使用されるなどミュシャ・スタイルの重要な要素を構成しています。さらにこれらの特徴はミュシャのポスター作家としてのデビュー作「ジスモンダ」に早くもみうけられます。
万人のための芸術
ミュシャ・スタイルがアール・ヌーヴォーと同意義にとらえられることは決して珍しいことではありません。この両者の共通点はなにも作風に限ったものではなく思想の面でも共通しています。ミュシャが晩年に描いたスラブ叙事詩など、民族や民衆を題材にしたことでもわかるようにミュシャは一部の富裕層やサロンに対してではなく民衆のための芸術を目指していました。この万人のための芸術という思想は、19世紀末の芸術界の存在した既存のアカデミーや伝統による芸術間の差別や区別に対し、反感や違和感を持つ芸術家たちが抱いていました。当時の芸術は純粋芸術と呼ばれる、絵画・建築・彫刻に対し、それ以外の応用芸術や装飾芸術と区別されていました。その芸術間による差別や区別をなくし、すべてを一つの芸術と考える運動や様式がアール・ヌーヴォーの根底にあり、ミュシャの装飾パネルやポストカード、新作版画など、富裕層やサロンに向けてではなく、一般に向けての芸術は、まさにアール・ヌーヴォーの思想を体現しているともいえます。アール・ヌーヴォーの装飾芸術とは日常を彩る芸術でもあります。手軽に手に入れることができ、飾れ、使える。ミュシャはポスターだけではなく、この装飾芸術の分野にも力を入れ、ポストカードにしか描かれていないオリジナルのデザインや、コレクションや観賞用の新作版画を描くなど、一般向けの芸術の普及に特に努めた画家の一人でした。
ミュシャ略歴
1860年 |
チェコ、イヴァンチッチェに生まれる |
1887年 | パリに出て絵画を学ぶ |
1891年 | ポール・ゴーギャンに出会う |
1894年 | ジスモンダのポスターを描き一躍有名になる |
1896年 | 最初の装飾パネル「四季」を製作、 この年よりシュンプノア社と独占契約を結ぶ。 |
1897年 | サロン・デ・サンにて2回目の個展を開催 |
1900年 | パリ万博にてボスニア=ヘルツェゴビナ館の装飾を担当 |
1904年 | この頃よりたびたびアメリカに出かけパリでの作品は減る |
1910年 | チェコに戻り、活動の拠点とする |
1911年 | ヒヤシンス姫のポスターを製作 |
1916年 | スラブ叙事詩を描き始める 1926年に完成 |
1939年 | プラハにて79歳の生涯を終える |
1948年(昭和23)創業、リボリアンティークスではアルフォンス・ミュシャの絵画や版画、ポスターを販売しています。弊社は…