アール・ヌーヴォーのポスターを蒐集するということ

──リトグラフの美と、その真贋をめぐって
展覧会で出会ったミュシャの輝き、あるいはロートレックの躍動感。
そんな一枚に心を奪われ、「自分の手元にも置いてみたい」と思ったことのある方もいらっしゃるでしょう。
けれども、いざ蒐集しようとすると、素朴な疑問が立ちはだかります。
「これは本物なのか?」「どこで買えばいい?」「原画は存在するの?」──
今回は、アール・ヌーヴォーのポスターを蒐集するにあたって、特によく聞かれる2つの疑問を軸に、基礎知識をわかりやすくご紹介します。
1. ポスターは“原画の複製”なのか?
アール・ヌーヴォーのポスターを前にすると、多くの人がこう考えます。
「これは、もともとミュシャやロートレックが描いた油彩画があって、それを複製したものなのでは?」
実はそれは、よくある誤解です。
この時代のポスターの多くには「原画」は存在しません。
美術館で目にするポスターそのものが、**オリジナルであり“本物”**なのです。しかも、油彩画のように一点ものではなく、当初から複数枚刷られることを前提に制作された芸術作品です。
アール・ヌーヴォーは、彫刻や絵画といった純粋芸術に対抗し、工芸やデザインといった生活に根ざした装飾芸術から生まれました。ポスターもその流れに属しており、街角に貼られ、人々の目を楽しませる“公開芸術”として機能していたのです。
2. 原画がないのに、どうやって作られた?
とはいえ、ポスターが印刷物である以上、「元になる絵」が必要に思えるかもしれません。
その秘密は「リトグラフ(石版画)」という技法にあります。
従来の木版画(たとえば浮世絵)は、画家が描いた下絵を職人が木に彫り、ハンコのように印刷するものでした。それに対してリトグラフは、画家が直接、石の版に絵を描くことができるのです。
ただし、石版に描かれた原版は、左右反転され、色も未着色。完成した絵画とは程遠く、原画というよりは「設計図」に近い存在。そこから印刷職人たちが色を吹き付けたり、手彩色を加えるなどして、最終的な作品を完成させていきます。
この共同作業の結果として生まれた“完成形”──それが、私たちが蒐集の対象とするオリジナルのポスターなのです。
3. リトグラフは「複製」なのか?
もうひとつ、多くの方が抱く疑問がこちら。
「リトグラフって複製でしょ?原画ではないのでは?」
たしかに、現代では「複製=価値が低い」という先入観があるかもしれません。
しかしリトグラフは、あくまで“印刷技法”であり、コピーではなく原作そのものがこの技法で生み出されるのです。
つまり、ロートレックやミュシャは、最初からリトグラフを用いてポスターを創作しており、それは「原画の複製」ではなく、最初から“刷られること”を前提とした芸術表現だったのです。
ロートレックはリトグラフ技法にのめり込み、手作業による吹き付けや斬新な配色に挑戦。ミュシャはより多色に、金銀などを用いた華やかな表現へと進化させていきました。これらはまさに、アール・ヌーヴォーという時代の美術的革新でした。
4. オリジナルと複製、その見極め
現存するポスターの多くは、1回の制作で100〜1000部程度刷られたものです。ですが、広告物として街に貼られたものは破棄されやすく、良好な状態で残るものは稀少です。
一方で、後年に制作された「再版」や「模倣品」も多く存在します。これは、オリジナルを参考に別の版を作り、色も異なるものを加えて販売したもの。中にはあたかも当時のもののように装った贋作も存在するため、注意が必要です。
リトグラフという言葉自体は、「本物か否か」を判断する材料にはなりません。
重要なのは、「いつ」「誰が」「どのように」制作したか、そして状態や刷りの特徴を見る目を養うことです。
5. 蒐集の愉しみと心得
アール・ヌーヴォーのポスターには、現代の印刷物では決して再現できない、深みのある色彩や質感があります。ときに紙肌に残る石の痕跡、手作業の痕、そのすべてがひとつの“作品”としての個性を放っています。
とはいえ、それぞれに状態も異なり、情報も錯綜しています。信頼できるお店や専門家に相談しながら、自分の眼で作品をじっくり眺め、直感に従って一枚を選ぶ──
それは、単なる“買い物”ではなく、芸術との静かな対話の時間になるはずです。
美しきリトグラフの世界へ
ポスターは、一瞬で人の目を奪い、時代の息吹を伝える“街の芸術”でした。
その芸術性と記録性、そして今なお残る物質感は、まさに蒐集の喜びを教えてくれる存在です。
リトグラフという技法が開いた表現の可能性──その魅力の奥行きに、ぜひ触れてみてください。
リトグラフができるまで

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