19世紀末のアブサンの飲み方

緑の妖精をめぐる詩──19世紀末、アブサンの飲み方
光の差す午後、カフェのテラスに座れば、テーブルの上に淡い緑のグラスが置かれていた。 それは「緑の妖精(La Fée Verte)」と呼ばれた酒、アブサン。 ボードレールやワイルド、ロートレックら芸術家たちが愛したその一杯は、ただ酔うためではなく、詩と幻想を味わう儀式でもありました。

このページでは、19世紀末パリで実際に行われていたアブサンの飲み方と、当時の文化的背景をご紹介します。
アブサンとは何か?──詩人と画家を魅了した酒

アブサンとは、ニガヨモギ(アルテミジア)を中心に、アニスやフェンネルなどを配合して造られる薬草系リキュールです。 1790年代に薬酒として広まり、19世紀には大衆向けに発展。やがてパリのカフェ文化に欠かせない存在となりました。
その香りは強く、味わいは苦くも甘く── 芸術家たちはこの酒にインスピレーションを求め、「幻想を呼び起こす飲み物」として描写しました。
アブサンの飲み方──カフェのテーブルで交わされていた作法
19世紀末、アブサンの飲み方には決まった手順がありました。 それは単なる習慣ではなく、視覚・香り・味をゆっくりと開かせる儀式のようなもの。
用意するもの

- アブサングラス(くびれのある専用グラス)
- アブサンスプーン(穴のあいた銀製スプーン)
- 角砂糖(1〜2個)
- 冷水(氷は使わない)
手順
- グラスのくびれ部分までアブサンを注ぎます(30〜50mlほど)
- スプーンをグラスの上に置き、角砂糖をのせます
- その上から冷水を少しずつ、ゆっくりと注ぎます

すると──

アブサンは徐々に白濁してゆき、乳白色の「ルーシュ(louche)」という現象(ウーゾ効果)が起こります。 これは香草の精油が水に溶け出し、混濁する自然の変化。 この瞬間こそ、アブサンの魔法と称されたものです。
比率はアブサン1に対して水3〜5が一般的。
地域や嗜好による違い
パリでは「一気に注いで急激にルーシュを起こす」のが好まれた一方、 地方では「水を一滴ずつ落として香りを立たせる」スタイルも存在しました。
特にスロウドリッパー(点滴式のアブサン用サーバー)を用いることもあり、 一杯に数分かけるその様子は、まるで儀式のような静謐さを帯びていました。
現代でよく見る「火をつける飲み方」について
映画などで見られる「角砂糖に火をつけるアブサン」は、実は20世紀以降の創作です。 19世紀末のフランスでは、火を使った演出は行われておらず、むしろ繊細な香りを損なうものとされていました。
本来のアブサンの魅力は、香りと色の移ろいを静かに楽しむところにあります。

ロートレックとアブサン
ロートレックはアブサンをこよなく愛し、自らのカクテルレシピを考案したことでも知られています。 その名も《地震(トランブロンマン・ド・テール)》と呼ばれるカクテルは、彼らしいユーモアと破天荒さを備えた一杯。
▶ ロートレックとアブサンカクテルの逸話はこちら アブサンカクテル「地震」|ロートレックのレシピを再現
最後に──香りの中のベル・エポック
アブサンは酔うためだけの酒ではありませんでした。 それは芸術家たちの言葉や色彩を導き出す「時代の香り」。 グラスの中で変化する緑の妖精は、いまも私たちに、100年前の夜の匂いをそっと届けてくれます。
ぜひ、ベル・エポックの息吹を感じながら、その一滴に耳を澄ませてみてください。