新聞シャノワール第1号

新聞「シャノワール」Le Journal du Chat Noir

新聞「シャノワール」とは

新聞「シャノワール」第1号
新聞「シャノワール」第1号 1882年1月14日 リボリアンティークス蔵

1881年11月、ロドルフ・サリがパリのモンマルトルにキャバレー「シャノワール(黒猫)」をオープンして間もなく、1882年1月14日に自身のキャバレーの機関紙として新聞「シャノワール(LE CHAT NOIR)」を発行しました。全4ページからなる新聞は、白黒のタイポグラフィで印刷しステンシルで色付けされることもありました、新聞の4ページには詩・物語・シャンソン・パリの展覧会や演劇の論評、金融や株式にスポーツと多種の内容と企業の広告などが掲載され、3ページ目にはウィレットやスタンランなどによるユーモラスな風刺画が描かれました。しかしこの新聞「シャノワール」の形態はサリ独自のアイデアというわけではなく、1878年に芸術家グループであるイドロパット(Hydoropathe)のエミール・グドーが発行していた新聞「リドロパット(L’Hydropathe)」や、1880年に発行されたロビダの「ラ・カリカチュア」、そして1832年から発行されフランスで人気を誇った風刺新聞「ル・シャリヴァリ(Le charivai)」などの挿絵と残り3ページに、記事や物語、告知や論評を載せるスタイルに特に影響を受け製作されました、このようにシャノワールが開店した時代の1870年から1895年にかけては風刺画などを挿絵に用いた出版物が数多く制作されていました。

新聞「シャノワール」の発行期間は1882年1月14日から1895年3月30日までの14年間で690回発行されますが、サリが関わっていたのは1893年までで、その年にサリはこの新聞の発行権を売却してしまいます。発行部数は1893年までで12000~20000部といわれ、価格は15セントで販売されました。

シャノワールの表紙のムーラン・ド・ラ・ギャレットと黒猫の絵はアンリ・ピルによって描かれました、この表紙はシャノワールを代表するアイコンの一つで、1884年5月24日の一回を除いて常に同じ絵でした。

新聞「シャノワール」124号絵違い
表紙の絵が異なる1884年5月24日発行の新聞「シャノワール」 リボリアンティークス蔵

シャノワールに掲載されたイラスト

シャノワールには様々な画家の作品が掲載されましたが、特に貢献したのがアドルフ・ウィレットとテオフィル・スタンランになります。ウィレットは「ピエロ」、スタンランは「黒猫」をモチーフにした作品を数多く掲載し、ピエロと黒猫はシャノワールを代表するキャラクターになっていきます。

ウィレット「いたずらピエロ」
「いたずらピエロ」アドルフ・ウィレット 1882年 リボリアンティークス蔵
スタンラン「月明りの下で」
「月明りの下で(闇夜の惨劇)」 スタンラン 1894年 リボリアンティークス蔵

新聞「シャノワール」にかかわった人々

シャノワールにかかわった人々
新聞「シャノワール」にかかれたシャノワールに関わった人々(新聞部分)

上の画像は、新聞「シャノワール」に掲載されたシャノワールにかかわった人々の一覧になります。

ここではディレクターがロドルフ・サリ、編集長がエミール・グドー、芸術分野はアンリ・リヴィエールと書かれていて、その下に協力者として文芸部門・詩部門・音楽部門・芸術部門にわかれ人名が記載されています。

文芸部門では、ヴィクトル・ユーゴーやエミール・ゾラ、フランソワ・コッぺ、音楽ではワーグナーなどが書かれていますが、興味深いのは芸術部門に2名の日本人の名前が書かれていることです。一つは「YAMAMOTO」もう一つは「SEI-TEI-WATANABE」と書かれていて、おそらく前者は当時フランスに滞在しジュディット・ゴーチエの「蜻蛉集」などのイラストも手掛けていた「山本芳翠」、後者は花鳥画などで有名な「渡辺省亭」と思われます。

>美術画廊「リボリアンティークス」

美術画廊「リボリアンティークス」

19世紀の絵画・版画・リトグラフなどアール・ヌーヴォーやアールデコの作品を多数扱っております、JR田町・都営三田駅徒歩4分、札ノ辻交差点角

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