モンマルトルの伝説的な存在
キャバレー<黒猫 シャノワール>は、酒造メーカーの息子で画家でもあり、ボヘミアンであった、ロドルフ・サリが1881年11月にモンマルトルの丘に作った酒場、場所のモンマルトルは、パリの北のある丘で、映画アメリの舞台にもなったところです。もともとモンマルトルとは、敬虔な修道僧が入植し、「殉教の丘」モンス・マルティロムからきています。これが18世紀には場末の色町となり、ロートレックなど芸術家などが集まるようになりました。
このモンマルトルのロシュアール通り84番地に芸術家のための酒場を作り自分の実家の酒を売っていたのが「シャノワール」の始まりです。開店にあたり、カルチェ・ラタンで活動していた芸術グループである「イドロパット」などと協力し芸術家や文化人のたまり場を目指しました。この目論見があたりシャノワールは大いに人気になります。店名はエドガー・アラン・ポーの小説「黒猫」からとった、ちょうどサリが物件を見に来た時に黒猫がいたから、などと言われています。シャンソン歌手のアリスティッド・ブリュアンなどが歌い、大盛況したのですが、このロシュアール通りはモンマルトルのメイン通りでもあるので、地元の顔役などに疎まれ追い出されます。(ロシュアール通りとは今もムーランルージュのある通りです。)
追い出されたサリは、1885年の6月に店舗をロシュアール大通り84番地から少し裏手のラヴァル通り(現ヴィクトル・マッセ)12番地に移転します。ヴィクトル・マセ通りはロシュアール通りからも近く、(1,2本裏の通りになります)、引っ越しオープンはとても盛大に行い賑わったそうです。新しい移転先は3階建てで1886年より影絵の劇場を併設し、この影絵が大当たりし、シャノワールは一躍有名になり、ここから10年間このシャノワールがパリの有名な社交場として全盛を誇ります。しかし、有名になり商業主義的な半面が強く出てくると、それに嫌気の指した芸術家や文化人(アドルフ・ウィレットやエリック・サティなど)はシャノワールから遠ざかります。そしてサリは1892年頃よりこの影絵を目玉とした地方巡業を行います。地方巡業を行う際はモンマルトルの店は閉めたため客足が遠のき、さらには1889年のムーランルージュのオープンなどもあり次第に衰退していきます。そして1896年にキャバレー「シャノワール」の芸人を、フランスの地方や海外に巡業させます。この地方巡業の広告が、今回紹介したスタンランの有名な黒猫のポスターです。色々な所で巡業したため、ポスターに演目が描かれる、日時(近日や今夜)など5パターンあります。 1897年にルドルフ・サリが亡くなるとお店も閉店し、翌年1898年にはシャノワールの遺品は競売にかけられ散り散りになってしまいました。
シャノワールに関わった人々
ルドルフ・サリ | ル・シャノワールの名物オーナー |
エミール・グドー | 元はイドロパット、新聞「シャ・ノワール」の編集長を務めた |
アルフォンス・アレ | イドロパットやアンコエラン派などにも関わった |
アンリ・リヴィエール | 芸術担当 |
アドルフ・ウィレット | 芸術担当 |
スタンラン | 芸術担当 |
ワーグナー | 音楽担当 |
ドビュッシー | 音楽担当 |
エリック・サティ | 音楽担当 |
アリスティッド・ブリュアン | 音楽担当 |
ギュスターブ・エッフェル | 常連客 |
エミール・ゾラ | 常連客 |
トゥールーズ・ロートレック | 常連客 |
シャノワール年表
1881年 | シャ・ノワールがモンマルトルにオープン |
1882年1月14日 | 新聞「シャ・ノワール」が刊行される |
1882年3月 | ウィレットのピエロが掲載され人気を博す |
1883年9月 | スタンランの作品が始めて掲載される |
1884年 | アリスティッド・ブリュアンがシャノワールの歌を製作 |
1885年6月 | シャ・ノワール移転 |
1886年 | 影絵劇がはじまる |
1887年 | エリック・サティがシャノワールに参加 |
1892年 | シャ・ノワールの地方巡業が始まる(黒猫一座の巡業) |
1896年 | スタンランが地方巡業のポスターを製作 |
1897年3月 | オーナであるサリが亡くなった為閉店 |
1897年4月 | 遺品が競売にかけられる |
1898年 | 2回目の競売が行われ関係資料が散逸した |
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