ディヴァン・ジャポネ トゥールーズ・ロートレック 1893年
パリのモンマルトルにあるマルティーユ街にあったカフェ・コンセール「ディヴァン・ジャポネ」の広告ポスター。
もともとはミュゼットと呼ばれる大衆向けのダンス・ホールであったディヴァン・ジャポネは炭鉱労働者が通う場末のダンス・ホールであった、1875年に「カフェ・ド・ラ・シャンソン」と名と業態を変え、労働者が愛国的な歌などを歌い才能を試す場となった。
このポスターのようなイメージとなったのは1883年にルフォールという人物が「カフェ・ド・ラ・シャンソン」を買取り、内装などを日本風に装飾し、ウェイトレスやミュージシャンには日本風の格好をさせる「ディヴァン・ジャポネ」としてオープンしたことによる。
ちょうどこの時期のフランスでは、1878年のパリ万国博覧会での日本の展示の成功を受け日本の文化「ジャポニズム」の流行がおこり印象派などへ影響を与えるなど、フランスの文化人や芸術家に日本に興味を持つ者が増えていた。しかし、ビングの日本の研究書などが発行されるのはこのまた少しあとであり、このころはジャポニズムといっても日本と中国(シノワズリ)が一緒くたになっていた。
その後ディヴァン・ジャポネは1888年にジュアン・サラザンにより地下に「上機嫌の寺」と呼ばれるシャンソン歌手のためのホールを建設した、このホールはたいへん狭く、手を上にあげると天井につくほどであった。
この首から下のみ描かれている女性は、黒い長手袋からもイヴェット・ギルベールであることがわかる。
下の画像はロートレックの描いた「イヴェット・ギルベール」
イヴェット・ギルベールは1891年にディヴァン・ジャポネに雇われたが、このころはまだデビューしたての新人歌手であった。しかし彼女の独特の歌はたちまち人気になり、イヴェット・ギルベール自身の名声を高めるだけでなく、ディヴァン・ジャポネも大成功をおさめた。
しかしイヴェット・ギルベールが「コンセール・パリジャン」に移籍してしまうと、ディヴァン・ジャポネは大打撃をうけてしまう、その後新しい経営者となったオルンボステスはディヴァン・ジャポネを取り壊し、現在も残る建物に立て直した。イヴェット・ギルベールを失ったディヴァン・ジャポネの経営は苦しく、今度はエドゥワール・フルニエが新たな経営者となる。彼はここを文学的なカフェ・コンセールにしようと試み、ロートレックに一枚のポスターを依頼する。それがこのディヴァン・ジャポネのポスターである。
したがってこのポスターが作られた時にはイヴェット・ギルベールは移籍しており、彼女はディヴァン・ジャポネではすでに歌ってはいない。しかしロートレックは、首から下を描くことによりディヴァン・ジャポネに出演していたイヴェット・ギルベールを暗示的に表現するとともに、イヴェット・ギルベールが回顧録でも語っているようなホールの狭さ、特に天井の低さも表現している。
画面中央に描かれている女性の観客はムーラン・ルージュの踊り子ジャヌ・アブリルであり、彼女は教養の高い女性であった。
ロートレックの理解者の一人でもあり、ジャヌ自身もロートレックにポスターを注文しているほか、ロートレックも彼女を知識人として、版画集「レスタンプ・オリジナル」の表紙にも登場させている。
レスタンプ・オリジナルを手に取るジャンヌ・アブリル、画家はトゥールーズ・ロートレック